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戦国事典

羽柴秀吉(1537~1598)

はじめ木下藤吉郎。信長に「猿」「はげ鼠」
とあだ名される。風采はあがらなかったが、
部隊指揮官としては傑出。美濃・墨俣での築
城、越前総撤退時の殿軍などで信任を得て、
信長に重用される。信長の死後、天下統一。

「太閣」となって位人臣を極める。破格の大
出世を遂げた秀吉だったが、なかなか子宝に
恵まれず、そのため57歳の時にできた息子・
秀頼を溺愛。「かえすがえす秀頼の事たのみ
申し候」と遣書にも秀頼の事を書き残した。

今川義元(1519~1560)

三河・遠江・駿河を支配。「海道一の弓取り」
と呼ばれた戦国大名。兄の死後、後継争いを
制し当主になる。義元は今川が足利将軍家、
吉良家につぐ家柄であるとの自負から、貴族
風の格好をし、将軍を救おうと上洛を志した。

義元は、法を整備して領内の安定につとめ
その一方、宿敵だった武田家・北条家と三国
同盟を結び、国内外を固めた上で念願の上洛
に着手する。しかし、京への進撃途上、尾張
桶狭間で信長の奇襲にあい、落命する。

本田忠勝(1548~1610)

「家康に過ぎたるもの」と評された武勇の士。
13歳で桶狭間に従軍し、姉川、三方ヶ原、
長篠、小牧長久手、関が原と家康の主な戦い
すべてに参陣。止まったトンボが真っ二つに
斬れたという名槍「蜻蛉切」を手に活躍する。

豪将ぶりは半端ではなく、五十余度の戦いに
のぞみ、傷ひとつ負わなかったといわれる。
剛胆であったが沈着冷静でもあり、本能寺の
変の際、信長に殉じようとする家康にただ
一人反対。思いとどまらせる。

真田幸村(1567~1615)

大阪の陣で活躍した知勇兼備の将。関ヶ原の
戦いの時、上田城で父・昌幸と共に徳川秀忠
の大軍を撃破。戦場に遅れさせた。しかし、
徳川軍主力が関ヶ原で勝利したことで、幸村
は紀州九度山に幽閉される。その14年後。

徳川幕府が豊臣家討伐を決めると、九度山を
脱出。大阪城に入り、徳川の大軍と対決した。
夏の陣の決戦では、徳川本陣に特攻。家康を
あと一歩まで追いつめる。この奮戦が幸村の
名を後世に輝かせた。「真田日本一の兵」と。

前田慶次(????~1612)

叔父・前田利家をだまして水風呂に入れる。
秀吉にそっぽを向いて拝礼するなどの奇行で
知られる戦国一の傾奇者。武芸の達人で和歌
や茶道にも精通していた。不仲な叔父・利家
が前田家をつぐと、家を出て浪人となる。

その後、京で出会った上杉の将・長江兼続に
惚れて、会津遠征に参加。退却時には殿軍を
引き受け、愛馬・松風を駆り敵陣に突入。槍
で散々に蹴散らした。この見事な活躍で上杉
軍は兵を損ずることなく、退却できたという。

織田信長(1534~1582)

乱世を打ち砕かんとした、戦国最大の英傑。
もとは尾張の小大名であったが、隣国今川の
大軍を桶狭間に破って頭角をあらわす。以来、
各地を転戦。有力大名を次々に撃破し、中国
地方から関東まで、日本の大半を制した。

鉄砲の大量使用、兵農分離、キリスト教保護、
自由経済の推進と交通網の整備など、革新的
な策で近世への道を切りひらいた。だが天下
布武目前の1582年6月、腹心の明智光秀
の謀叛によって京・本能寺に攻め滅ぼされた。
 

明智光秀(1528~1582)

織田軍武将。文武に優れた勇将で信長の天下
統一に多大な貢献をする。しかし1582年、
突如謀叛。信長を倒す。その11日後、中国
戦線から舞い戻った元同僚・羽柴秀吉の軍と
山崎で決戦。敗れた光秀は逃亡中に落命した。

もとは浪人で信長に才を認められ登用された。
以来、多くの戦功を立て昇進を重ねる。信長
の信頼あつく、丹波を平定した際、「天下に
面目をほどこし候」と働きを絶賛された。謀
叛直前には織田家ナンバー2の地位にあった。

石川五右衛門(????~1594)

安土桃山時代の伝説的大泥棒。「石川や浜の
真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」
の辞世と「絶景かな、絶景かな」の歌舞伎の
台詞で有名。出身は不明だが、伊賀の出身で
忍者・百地三太夫の副将だったともいわれる。

豊臣秀吉の暗殺を依頼されて大阪城に潜入。
丑三つ時に秀吉の部屋に忍び、秀吉に斬りか
かろうとした。その刹那、名器「千鳥の香炉」
がチリリと鳴き、見つかって失敗。京・三条
河原で生きながら釜ゆでにされた。
 

上杉謙信(1530~1578)

越後の戦国大名。一族や主家と争いながら、
越後統一。自ら毘沙門天の化身と名乗るその
采配ぶりは戦国最強と評された。「関東管領」
になった後は地元武将の要請で、信濃・関東
へ出陣。武田信玄、北条氏康ら強敵と戦った。

1577年、能登越中に進出。手取川で織田
軍を撃破する。その後、信長討伐軍を準備す
るが出陣直前に急死する。義を重んじ酒と漢
詩を愛し、生涯妻を持たなかった謙信は乱世
にあって領土野心を持たない稀有な将だった。

 阿国(????~????)

歌舞伎の創始者。出雲大社の巫女だったとも。
阿国一座は出雲大社の本殿修理費を勧進する
ため諸国を巡った。はじめ「ややこ(少女)
踊り」を披露していたが、やがて阿国が男装
して傾奇者を演じる「かぶき踊り」を始める。

この踊りが大評判となり、阿国の名は全国に
知れ渡った。徳川家康の次男が「お国は天下
に知られているが自分は名をあげていない」と
嘆いたとの話も残る。なお阿国の夫は絶世の
美男で槍の名人・名古屋山三郎だったという。

お市(1547~1583)

絶世の美女と伝わる織田信長の実妹。近江の
大名・浅井長政に嫁ぎ一男三女をもうける。
しかし、浅井家と織田家は敵対関係となり、
1573年、本拠・小谷城を兄・信長の軍勢
に攻められて、夫・長政は自刃した。

娘を連れ実家・織田家に戻ったお市は、本能
寺の変後、もと信長家臣・柴田勝家と再婚する。
だが、対立していた羽柴秀吉に本拠・北庄城
を包囲され勝家は自害。お市もこれに従った。
浅井滅亡から十年、1583年春の事だった。


くのいち(????~????)

女という漢字を書き順で分解すると「くノ一」
となり、それを音読した「くのいち」を女性
や女忍びの隠語として用いたという説が一般
的である。だが、本来は「九ノ一」が正しく
「くノ一」は当て字といわれる。

1676年に、藤林保武によって伊賀忍術の
秘伝書である「萬川集海」が著された。この
巻第八に「久ノ一術」として、女性の特性を
活かす術が紹介されている。これを起源とし、
現代までに様々なくのいち像が描かれた。



雑賀孫市(????~????)

紀州雑賀の地侍からなる「雑賀衆」の頭領。
雑賀衆は射撃術に優れた鉄砲傭兵集団で、求
めに応じて戦い収入を得ていた。「雑賀孫市」
は雑賀頭領・鈴木重秀であるといわれるが、
鈴木佐太夫、重朝らも孫市を名乗ったという。

孫市(重秀)率いる雑賀衆は、石山本願寺と
織田軍の戦いの時、石山方に味方し織田軍を
苦しめた。業を煮やした信長は1577年、
雑賀の本拠を攻撃。雑賀衆は分裂し降伏した
が、孫市はこの後も石山開城まで戦い抜いた。



武田信玄(1521~1573)


甲斐の戦国大名。風林火山の軍旗をかかげる
精強な武田騎馬隊で近隣諸国を侵略。川中島
で名将・上杉謙信と激闘したのを始め、駿河
の今川氏、相模の北条氏と戦い、甲斐・信濃・
駿河・上野にまたがる大領国を築き上げた。

1572年、信玄は、京に入り政治の実権を
握ろうと大軍を発する。まず遠江に進入して
徳川軍を撃滅。さらに軍を三河に進め、野田
城を包囲する。信玄の入京を誰もが確信した
が、天運味方せず、信玄は病に没した。



伊達政宗(1567~1636)

戦国大名。18歳で伊達家をつぐ。以来、奥
州各地を転戦し、畠山・佐竹・蘆名らと戦う。
24歳の時、磐悌山麓の摺上原の戦いで蘆名
氏を滅ぼし奥州に覇を唱える。大胆不敵な用
兵と隻眼である事から「独眼流」と呼ばれた。

奥州制覇後、政宗は相模・北条氏と結び関東
進出、さらに天下をねらうが台頭著しい豊臣
秀吉に屈服。ついで徳川家康に従う。しかし
一揆の扇動、謀叛への関与疑惑、上杉領侵攻、
西欧との独自外交等、野望は衰えなかった。



濃姫(1531~????)

美濃の大名・斉藤道三の娘・帰蝶。美濃出身
であるため「濃姫」と呼ばれた。明智光秀の
従姉妹ともいわれる。斉藤道三と織田軍が和
解した際、織田信長に嫁いだ。信長の正室と
して有名だが、残存する資料はほとんどない。

嫁いでから早くに病没したとする説。信長没
後、信長次男・信雄の庇護下で「安土殿」と
呼ばれ長生きしたとする説。本能寺の変の際、
攻め寄せる明智軍と戦い討ち死したとする説。
嫁いでからの消息は諸説ある。



服部半蔵(1542~????)

服部正成。徳川家臣。本能寺の変の際、堺に
いた家康たち十数名は、明智の攻撃を避ける
ため難所・伊賀を越え、帰国しようとした。
伊賀出身の半蔵はこの時、先導役として活躍。
家康の生涯最大の危機を救った。

半蔵は「鬼半蔵」とおそれられたが情を知る
男で、家康の長男・松平信康の介錯の際には、
その場に泣き崩れ、任務を全うできなかった。
これを聞いた家康は「さすがの鬼も主君の子
は斬れぬか」と半蔵を一層信頼したという。



森蘭丸(1565~1582)

森可成の三男。可成が戦死した後、弟・坊丸、
力丸とともに織田信長に小姓として仕える。
容姿美しく利発で、信長にその才を愛された。
奏者や奉行を歴任し、織田信長の政事、経済
に深くたずさわったという。

1582年、甲斐平定戦に従軍。その功績で
18歳の若さながら美濃・岩村5万石の城主
となる。信長のこうした蘭丸への寵愛が光秀
の疑心を生み謀叛の一因となったといわれる。
その光秀謀叛の時、信長を守って奮戦、討死。



羽柴秀吉氏提供