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戦国まめ知識 猛将伝に登場する武将達

実は・・・・・ 戦国無双では今川義元はふつ~うに馬に乗ることが出来ますが、
実際には足が短すぎてのれなかったそうです。
移動するときは籠でいどうしてたらしい・・・
正宗は小柄? 独眼龍正宗が何故小さいか。

当時の日本人男子の平均身長は
140cm前後だったと言われています。
159cmは大男です。
だとすると正宗は大男として描かれるコトはあっても、
小柄で描かれることは無いと思います。

むしろ、正宗が小柄なのは年齢が大きな要因だと思います。
武田信玄が1521年生まれ、
織田信長が1534年生まれと他の光秀、
秀吉らも含め大体1520~1540年生まれなのに対し、
正宗の生年は1567年と20年以上も後なのです。
俺の予想だとキャラデザインは大体-10歳(本能寺<1584>基準)
なので、そのとき正宗は20代、-10で10代、ほら、ぴったり。

↑これに対する意見
ご存知ない方が多いと思いますが
政宗と幸村は同い年だと言われています
よって政宗の身長が低いのは
キャラのバリエーションを増やす為、
あるいは秀吉の天下平定後もただ一人屈しなかった、
彼の若さを象徴したものだと思われます。

↑これに対する意見
安土桃山時代、身長で高いとされていた高さは160cm以上
だったそうです。170以上あれば大男と言われていたぐらい。
ちなみに秀吉は156cmぐらいだったそうです。
中学生にまけてしまいそうな身長ですが
当時はこの位が普通だった?!

↑さらに意見
前田慶次は6尺5寸(197cm)だったそうです。
デケェ
本多平八郎の父と母、祖父 今作で登場の本多平八郎。
名乗りは忠勝。烏帽子親は家康。
由来は「戦にはただ勝つのみ」というところから来ているとか。
なお忠の字は先祖代々で、父が忠高、祖父が忠豊。
いずれも忠烈の武士で、
忠豊は家康の父広忠の身代りに織田信秀にとっこんで討ち死に。
忠高は妻が身ごもってる時に戦に出て、
味方を助けるため無謀にとっこんでって、やはり討ち死に。
その妻、つまり平八の母は、これまた忠義の家系。
その父植村新六郎は、家康の祖父清康と、
父広忠を殺した刺客を、両方とも仕留めている。
なんてゆ~か、忠の字がこれほど似合う男もいないな、と。
独眼竜 伊達政宗が
ゲームでなぜ小さいか
東北地方の戦国大名として有名な武将といえば「独眼竜」の名を全国に轟かせ恐れられていた伊達政宗。
ゲームでは子供みたいに小さく描かれている。
それはなぜかというと発掘された頭蓋骨から政宗の復元容貌像が作られていてそれによると身長は159.4cmであったからであると考えられる。ちなみに政宗は面長で鼻筋が通った貴族形質の顔で血液型はB型だったという。
ALEA JACTA EST 羽柴の章で信長が何度か言うセリフ
「alea jacta est(アーレア・ヤクタ・エスト)」は
ラテン語で「さいは投げられた」という意味の言葉です。
スエトニウスの記したカエサル(ジュリアス・シーザー)
の言葉(岩波文庫『ローマ皇帝伝』)として有名です。
真田幸村と諸葛孔明 三国史で有名な諸葛亮は醜女にもかかわらず月英の才知に惚れ妻にと求めましたが(一説では美女だったとも言われてます)戦国の真田幸村もそれに憧れ態と醜女を妻に求めたと言われています。
毛利元就? 今川義元上ルートエンディングで信玄、信長などが後ろ手を縛られ座っているが、その中の真田幸村の後ろあたりに座っている武将の兜は毛利元就がかぶっていた物である。その他の武将ももしかしたら九州勢の有名ドコかもしれない。
忠勝の甲冑 忠勝隠しコスチューム(兜に鹿角つけたやつ)は、実際に忠勝が合戦で身につけていたものがモデルになっている。
豊臣秀頼は戦に出られなかった。 ゲーム中での豊臣秀頼は大阪夏の陣などにでていたが、実際には戦に出られなかった。
理由は食べすぎにあるという。
運動をせず食べてばかりいたので太りすぎて、馬などに乗れないということだったと言われている。
羽柴のセリフとホトトギス 羽柴秀吉の秘奥義時のセリフの「鳴かにゃぁ奴ぁ!わしが泣かすでぇ!」は、秀吉の性格を表した俳句の「鳴かぬなら鳴かせて見せようホトトギス」に由来してると考えられる。
民を思う信玄 武田信玄は実の父親を追放し国主になったとされるが、これは、父親が悪性をしいたためであり、自らの野望ではなく民のためにやったことである。また、追放といっても家来や側室をつけ、資金は信玄もちであったので、実際は強制的な隠居である。戦国で人格者となっている信玄の原点はここにあると思われる。
武田信玄は親不孝・人間不信 ゲーム中ではかなりおちゃめな信玄ですが、親を親とも思わない親不孝だったらしい。さらにかなりの人間不信だったためか、大きな城を築かなかった。
信長のせりふの元ネタ 信長の岐阜(対上杉)で信長が「そちは兵の将、余は将の将」というせりふがありますが、これは横山光輝著『項羽と劉邦』で韓信が劉邦に対して機嫌をとるためにいった言葉からきていると思われる。
秀吉の死に台詞 秀吉の死に台詞は有名な秀吉の言った連歌、

「つゆと落ち つゆと消えにし わがみかな
 難波のことも 夢のまた夢」

からきている。
義元ちゃんの息子 今回から登場の武将今川義元の息子に、今川氏実という人物がいます。この人はさまざまな娯楽に精通し、中でも蹴鞠の腕前は当代一と言われていました。義元の武器もここからきていると思われます。